北京旅行:その4 頤和園(イワエン)
今日は、清朝末期の政治を牛耳った「西太后:1835年~1908年」が海軍の費用を流用して再建したと言われている「頤和園(イワエン)」の紹介をしてみる。
中国の歴史の中に、しばしば登場する西太后だが、1835年生まれと言う事は、日本の年号で言うと天保6年。新撰組副長の土方歳三やアンドリュー・カーネギー等と同い年のようだ。
■
1856年、西太后は咸豊帝の長男を生み、その功績により、皇后に次ぐ二番目の地位である貴妃に昇進。
■
その後咸豊帝が崩御した1861年、西太后は咸豊帝との間に生まれた皇太子載淳を同治帝として即位させ、自らも東太后と共に垂簾聴政を行った。
■
1874年同治帝の大婚を機に親政を行おうとしたが、息子の同治帝は天然痘のため若くして崩御してしまった(真の死因は梅毒とも言われている)。 同治帝は子供を作らずに死去したため、後継問題が持ち上がった。
自身の権力低下を恐れた西太后は、妹の息子を光緒帝として即位させた。そして再度東太后と共に垂簾聴政を行い、権力の中枢に居続けた。
さらに1881年東太后が崩御。これによって西太后は清朝において誰に遠慮することもない地位を確立した。
■
1887年、甥の光緒帝の成年に伴い、自らは隠退を要望するが、混乱を恐れた重臣たちの意を受け3年間の「訓政」という形で政治のフォローを行う事を条件に、光緒帝の親政が始まる。 1888年には自身の姪を光緒帝の皇后(のちの隆裕皇太后)に推挙。
西太后は整備用の海軍予算を流用して頤和園を再建する訳だが(頤和園は1860年に英仏連合軍により殆どが破壊されていた)、北洋海軍の整備が遅れたことが、日清戦争に敗北した理由のひとつと言われている。
日清戦争の勝利により日本はその後軍国主義に走る訳だから、西太后のお気に入りだったこの庭園、日本とは大いに関係が有る庭園と言えそうだ。
その後、袁世凱が一部で進めていた西太后暗殺計画を密告した事により光緒帝を逮捕の上、中南海の瀛台(エイダイ)に幽閉し、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌政変)。
1908年光緒帝が崩御した翌日、「ラストエンペラー」溥儀を宣統帝として擁立し、西太后も74歳で崩御した。光緒帝と西太后の亡くなった日が近いことから、自らの死期の近いことを悟った西太后が帝を手にかけた、という流説が飛び交った。
写真は、頤和園内に今も残る光緒帝が軟禁されていた建物。外から見ると他の建物と変わらない様に見えるが、内部はレンガで囲われている。
