江戸・東京探訪

August 06, 2008

浮世絵木版画作品展&せともの市

Rimg0366_2  昨日の雷雨でスモッグが綺麗になったのか、久し振りに綺麗に晴れ上がり気温もぐんぐん上昇。

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Rimg0368 血液検査の予約をしていたので仕方なく病院へ出かけ、帰りに豊洲のららぽーとにあるUKIYO-e TOKYOに寄ってみた。

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 どういう経路で送られて来たのか分からないが(笑)、浮世絵木版画作品展の案内の葉書が送られてきたのだ。

 ららぽーと豊洲に行くのは初めてだが、私好みの家具屋が沢山入っていて家具を見るだけでも十分時間が潰せそうだ。

 今日は家具屋はスルーして、先ずは目的の美術館に直行。彫り師と刷り師の実演を1時間ぐらい眺めて、色々お話をお聞かせて頂いた。

 私と同じようにそれぞれ案内状を送られて来たのであろうお客さんたちは、揃って皆マニアックな感じ。私の隣の男性は江戸期の版木を持っているようだし、反対側の隣にいた方は桜島や開聞岳など主に風景版画を自分で彫っている人だった。

 美術館内で木版画と刷り、彫りの技、刷り師さん&彫り師さん&館長と思われる方とのお話、そして素晴らしい浮世絵を堪能した後、ワークショップで木版刷りの絵葉書作り体験にチャレンジしてみた。

Rimg0362_2  カキ氷の柄ともう一つ子供向けの柄も有ったが、私が挑戦したのは神奈川沖浪裏。浮世絵と同じように数枚の素晴らしい彫りの版木で多色刷りをするという、何とも贅沢な体験をさせて頂いた。

 刷り師さんはいとも簡単そうに刷っていたのに、自分で刷ると小さい版画でもなかなか思うように行かない。

 因みにワークショップでやはり神奈川沖浪裏を刷っていた男性は、何と彫刻刀製作を生業にしている方だった。う~ん、やっぱりマニアックな客層だ。

 浮世絵を満喫した後、折角来たので家具屋を一通り覗き、ららぽーとを後にした。

Rimg0372  豊洲から月島人形町へ地下鉄で移動して、次は今日が最終日の「せともの市」へ。

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Rimg0378  江戸や明治の年代物の皿などを売っているお店も有り、なかなか楽しめる感じだが、安さと品揃えの多さは有田の陶器市がやっぱり凄いかな?
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Rimg0370  「せともの市」なのに、せとものは買わないで、市で売られていたドイツ製のステンレス水筒と、通りの八百屋で夕顔の実を買って帰った。(笑) 先週末に行った別所温泉で食べた蕎麦屋のお通しが「夕顔の胡麻和え」だったのだが、非常に美味しかったので、自分でも挑戦してみるつもりになったのだ。

Rimg0369  東京はあちこちでしょっちゅう「何とか市」とか「何とか祭り」とかをやっているから、今まで行ったことがない市や祭りを発掘してみるもの面白いかもしれないなぁ。

 

 

 

 

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November 07, 2007

上野界隈

Nec_0325_3  今日は、仕事の後、中学校の願書を貰いに上野に行って来た。

 最近結構うろうろしている上野界隈だが、今日は携帯で撮った上野駅周辺の写真をいくつか紹介してみる。

Nec_0326_2  先ずは、京成駅の入り口にある壁画(オブジェ?)。魚に飲み込まれた子供が風車をふいているところみたいで、何か不気味と感じるのは私だけかな?
 この壁画、メキシコ人壁画家によって制作された作品だそうで 、「魚に飲み込まれた子供」と思ったのは鯉のぼりのイメージらしい。
Img_3150  「鯉のぼりは大和魂を、折紙の風車は未来のエネルギーである原子の力を象徴し力強く生きる子供の生命力とその宇宙を表現したもの」らしいのだが・・・。ウ~~ン??って感じかな?

 「外国人が作った変なオブジェ in TOKYO」の投票をしたら、吾妻橋にあるアサヒビールの炎のオブジェ(←通称巨大う○ち)と並んでベスト3に入りそうだ。

Nec_0329_2  次に紹介するのは、今日、小さい公園で見つけた彫刻(?)。カタツムリの上に子供が乗っているところのようだ。この手の彫刻、昭和20~40年代に作られたんじゃないかな?如何にも昭和を髣髴とさせるオブジェだ。
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Nec_0328  左は消防署の横に有った、「火の見やぐら」のオブジェ。このくらいなら許せる。(笑)

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Nec_0330  暫く歩くと、ビルの玄関横にある「安全河童」を発見。もうこの辺りは河童橋なのだろうか?

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Nec_0331  ←左は入谷口近くに有る「光輪モータースアメリカ館」。1階部分が赤い旗で覆われていて、何やらただならぬ雰囲気だ。

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Nec_0332  ビラも沢山貼ってあったので、そのうちの一枚を写真に撮って、帰ってから「光輪モータース闘争」について調べてみた。

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Nec_0333  入谷口から上野駅に入ると、宇都宮線や高崎・上越線の発車案内の電光掲示板が有った。いつも山手線を利用する事が多いので、あまり意識した事がないが、「そう言えば上野駅は大きなターミナル駅だった」事を思い出した。 それにしても、駅の付近は、上野公園のみならず近隣でもホームレス風の人を沢山見かけたなぁ。

 上野って、やっぱり不思議な所だな~。

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October 06, 2007

国立博物館特別陳列

Nec_0191_2   今日は、久し振りに良い天気で、しかも暑くもなく寒くもない丁度良い気温だった。久々のお散歩日和である。「こういう日は散歩に出かけないてはない!」とばかり、仕事の帰りに上野公園に寄ってみる事にした。
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Nec_0192  年間パスポートを持っているので国立博物館へ行ってみたのだが、国立博物館の本館特別5室では「仏道の道-インドから日本へ」と銘打った特別陳列が行われていた。 
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特別陳列の説明書きの一つの振り仮名が違っている事に気が付き(オタク丸出しだ~:笑)、美術館の学芸員の人に進言した。早速修正するそうだ。

 今日は特別展は開催されておらず、特別5室の特別陳列だけだったので、人も少なかったし特別陳列で陳列されている仏像の数もそれほど多くなかった。それで、一つ一つの説明書きをじっくりと読みながら仏像を見て回れたのだ。

 特別陳列ではガンダーラ風のカールした髪と口髭が印象的な石の菩薩像に悩殺されてしまった。

Nec_0195  特別5室を見終わった後、隣の一木彫の仏像などが展示されている部屋に行って、文殊菩薩像をまじまじと観察し、その後本館を出て隣の東洋館で石作りの仏像を見て回り、さらに法隆寺宝物館でも小さめの金属製の仏像を沢山見た。

 今日は正に仏像三昧の日だった。

 釈迦三尊像とか菩薩像とか如来像とか名付けられた仏像たちの、髪型や衣、肌の見せ方、足の形や手の形、立ち方座り方などは千差万別だった。時代とともに変化していった意匠もあるのだろうが、髪型や手足のポーズなどは、一定の決まり事が有り、それぞれ意味を持っているようだ。

 以前、五島美術館の庭園を散策した時に、右ひざを立てて右手をほおに添えたようなポーズ(輪王坐?)の石仏が印象的だったのだが、今日国立博物館で見た仏像の中にも、右足のくるぶしを左足の膝の上に乗せて、半分胡坐をかいたようなポーズでやはり右手を頬に当てている姿(半跏倚坐?)の仏像が沢山有った。

Nec_0209 帰りに上野公園でペルーの音楽を聞いて、少しだけ寄付して帰った。

 今日は新しい靴で豆をこさえながらも結構歩いたが、暑くなくなったので、歩くのもそれほど苦にならなかった。やっと散歩が出来る気温になったが、もう10月だよ~。遅過ぎない?涼しくなるの。

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September 27, 2007

将門の首塚

Nec_0160  大手町のビルに挟まれた場所に平将門の首塚と称される場所が有る。

 昨日、仕事の後に、かねてから一度行ってみたいと思っていたその「平将門の首塚」を訪れてみた。
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Nec_0163  大手町のビル街の中で、そこだけ木が茂っていたが、前の通りは車が結構通るので静かとは言い難い場所だった。
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 看板の説明によると、写真の石塔婆(右上の写真の右側の石碑の後ろにある)は将門の首塚と言い伝えられていた塚の上に建てられていたのを、焼損するたび復刻して現代に伝えられる物らしい。

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September 18, 2007

江戸の範囲

Rimg0201  今日、病院の帰りに、本郷3丁目交差点に有る店に、左の看板が有るのを見付けた。

 看板によると、どうやらこのお店、「本郷もかねやすまでが江戸の内」と言う川柳に詠まれたお店らしい。

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Rimg0200  左の説明書きによると、「兼安」は1735年に歯科医兼康祐悦が乳香散という歯磨き粉を売る店として開店してから小間物屋として現代まで営業を続けているらしい。

 1730年の大火の再興の際大岡忠相がここ以南の江戸城に近い側を塗屋・土蔵造りにすることを命じ、屋根は茅葺を禁じ瓦で葺くことを許したため、江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、それからの中山道までは板や茅葺きの家が続いたようだ。
 
Rimg0202  現代、兼安は「かねやす」と言う店名になっているのだが、これにもどうやら訳が有る様だ。

 芝神明前の「兼康」との間に元祖争いが起き、時の町奉行は、本郷は仮名で芝は漢字で、と粋な判決を行ったため、それ以来本郷は仮名で「かねやす」と書くようになったと言うのだ。

Rimg0197  江戸城の中心から兼安までは直線距離にして2~3k位しか離れていないと思うのだが、昔の江戸の範囲は本当に狭かったんだなぁ~。

 それにしても、震災にも第二次世界大戦にもバブル期の地上げにも負けずに272年間も同じ所にお店を構えているなんて凄いなぁ!

 

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February 22, 2007

江戸・東京探訪:湯島天神

Img_2322  今日は湯島天神に行って来た。この天神様、以前も一度行った事が有るし、紹介した記憶も有るのだが、今日は梅祭りという事で再度写真を紹介してみる。

Img_2315  梅の花は、5分~8分咲きぐらいだっただろうか・・・、強風が吹かなければもう少し先まで楽しめそうだ。

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Img_2314  梅の木は、華やかの紅梅よりも白梅の方が多かったのだが、何しろ人が多過ぎて、梅の香りを感じる余裕も無かった。(笑)

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Img_2320  境内には色々な露天も出ていて、お店と参拝の人とで大層な賑わいだ。

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Img_2326  お参りをするのにも並ばないといけない位だったのだが、社殿をぐるりと一周して見て、社殿脇にかかっていた夥しい数の絵馬を見てやっと合点がいった。そうだった、湯島天神は天神様だから、今のシーズンはお参りの受験生で賑わっていたのだ。今年は我が家は受験とは関係ないから、どうも勘が鈍って困る。

Img_2330  「単に近くに寄ったついでに梅祭りを見て帰ろうと思った私とは、お参りにしろ根性の入り方が違うだろうなぁ」と思いつつも、最近神社仏閣通い慣れした私、ちゃんと作法通りに二礼二拍手一礼して、いつものように家内安全をお祈りしてきた。

Img_2342  今日、湯島天神の境内の露天で買ったのは、小さい達磨(次男は緑色が好きなので緑色の達磨を選んだ)と学業成就鉛筆。昔、大宰府天満宮の学業成就鉛筆を使った事などを思い出しながら、ついつい購入してしまった。

Img_2336  境内では近くに有るらしいおり紙会館の出店みたいなのも出ていて、千代紙で折るお雛様セットも売っていた。根っからの工作好きでこう言う細々した物に目がない私は、ついついこちらも2種類購入。(笑)、帰ってから夕食後、説明書を見ながら早速一つのセットの方を折ってみた。

Img_2316 好奇心が無くなったら人間老いた証拠だろうが、色々余計な事をし過ぎる癖は、今年は改めようと新年に誓ったばかりだ。  やれやれ・・・。

 話は変わるが、昨日叔母から荷物が届いていたので、お礼の電話をしたついでに長話をしたのだが、この叔母、73歳にして年収1000万以上のスーパー主婦である。

 この叔母も母もそうだが、私の親戚は、70歳代でも平気で夜行列車で日本縦断はするし、ほっとけば海外旅行にも行きそうな人ばかりだ。現に、叔母に北京旅行の話をしたら、チベットに行く鉄道の話も知っていて、いつか行きたいと思っていると話していた。

 母も叔母も、フルムーンは当然の事ながら、「青春18きっぷ」なんて物まで(70歳代にも拘らず)大いに利用していて、当然この春も青春18きっぷを使った旅行のプランを立て始めているようだ。(笑)

 青春18きっぷは、この春は特別価格なので、私も、駅で買って、偕楽園やその外日帰り出来る近場の旅行に使おうと思っていたから、やはり血は争えないという事なのだろう。(笑)

 彼女達を見ていると、実に「でべそ」で、家に篭るという事を知らないような感じである。旅行も頻繁にしているから安い旅行を自分で計画を立てて楽しみながらしているし、あちこち出歩いたり、出先でつまんない物を買ったりと、行動が私にそっくりだ。(笑)

 70過ぎても、ぼけずに、足腰も丈夫で、自分達で早割りを取ったり、安いチケットを買ったりして、時刻表と首っ丈で旅行のプランを練り、娘婿(私の夫:笑)の会社の福利厚生の割引券を調達して安く旅館に泊まったりと、悠々自適に貧乏旅行している様を見ると、「70過ぎてもカクシャクとして、あんな風に日本全国旅行して歩いていられるなら、好奇心旺盛でいろんな事に興味が行き過ぎる性格もあながち悪い事ではないかも?」と弁解してみたりもする。

 

  

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December 01, 2006

江戸・東京探訪:五島美術館

Img_1525  今日も、仕事が終わってからお決まりの千疋屋のカフェに。今日はマロンソフトを堪能した。お味の方はまあまあといったところか。

 腹ごしらえをしてから、今日は世田谷区上野毛に有る五島美術館に「鎌倉円覚寺の名宝展」を見に行って来た。

Img_1526  五島美術館は、東京急行電鉄株式会社の元会長・五島慶太翁(1882―1959)が半生をかけて収集した日本と東洋の古美術品をもとに、昭和35年(1960)に開館した美術館で、国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として有名だ。

Engakujip   残念ながら、源氏物語絵巻の実物は見る事が出来なかったが、特別展の「鎌倉円覚寺の名宝展」では、無学祖元(1226~86)所用の品々を見る事が出来た。どちらかと言えば、円覚寺の名宝よりも源氏物語絵巻や、紫式部日記の方により惹かれるのだが(笑)、「源氏物語絵巻」は毎年春に、紫式部日記絵巻」は秋に、01003_009それぞれ1週間程度公開しているようだ。

 頻繁にチェックして、春の公開日には見逃さないようにしたいものだ。

 本物は見る事が出来なかったが、年賀状用に紫式部日記の絵葉書を数枚購入した。

Img_1527  この美術館、私設の美術館としては、「源氏物語絵巻」や「紫式部日記」などの国宝を所蔵しているだけでも凄いのだが、実は、その庭だけでも見る価値が有る。庭だけだと入場するのに100円ほど払えば良いようだから、例えば春など、都の天然記念物になっているこぶしの花を見に来るのもいいだろう。

Img_1538  ここの庭、大日如来や六観音などの石仏があちらこちらに置かれている。その中でも、女性の墓標などによく使わImg_1535 れる如意輪観音(やや首をかしげて右手を頬に当て、右膝を立てる独特の姿をした観音様)や六地蔵などが沢山有ったのが印象的だった。

Img_1543  作庭をしたのも五島慶太翁だとすれば、如意輪観音や地蔵菩薩が沢山有るのは何か翁の経験に関係しているのかもしれない。

 尚、先日行った日光東照宮は三猿の木彫で有名だが、ここにも「見ざる言わざる聞かざる」の石の彫刻が有った。

 また、赤門も見付けた。朱赤が夕日に照り映えてとても美しかったのが、腕が悪く美しさが半分も伝えられないのが残念。(泣)

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November 10, 2006

用賀の世田谷美術館(ルソー展):その3

Img_0458  昨日今日と調子が今一。今日は特に片頭痛が酷くて、ゾーミッグとプリンペランを飲んでさっきまで撃沈。

 先ずは昨日千疋屋のカフェで飲んだ「日本橋美人シェイク」の紹介をしてみる。

Img_0459  このシェイク豆乳ベースの青林檎シェイクだ。この手のシェイク、VIE DE FRANCEの黒ゴマとバナナのシェイクを時々頂くが、こちらも結構美味。

 

 さて、用賀の続きだが、今日は用賀駅から美術館へと続く「用賀プロムナード」について紹介していようと思う。

 この道、色々な仕掛けが用意されていて楽しい道だが、昭和56年に計画された物のようだから、美術館とセットにしてに計画立案されたのではないだろうか。

 個性的な道は「並木みち」、「みちのサロン」、「みちのギャラリー」、「みちのホール」と呼ばれ、それぞれ特徴的なデザインがなされている。

 行きは美術館までバスで行ったのだが、帰りは美術館から「用賀プロムナード」を通って帰ったので、美術館からの帰り道を、順を追って紹介してみる。

 私は、美術館から駅まで帰りは歩いて帰ることにしたのだが、徒歩17分と有ったので、大抵の人はバスに乗ってしまうのではないだろうか。

 こんなに楽しい道の仕掛けが用意されていると知ったら、天気の良い日は歩いて帰る人も多いと思うのだが、道が出来てから20年ぐらいは経っているようだから、話題性も薄れてしまったのだろうか、宣伝が行き届いてないらしく思えるのが残念だ。

 美術館は砧公園の一角に有る。砧公園の住所は、東京都世田谷区砧公園(笑)、とても憶えやすい住所だ。

 公園の敷地は昔ゴルフ場だったらようだが、Googleで見てみるとその名残が見て取れる。

 先ず、上の地図の中央よりやや右上にある世田谷美術館(画面に茶色い屋根が見えている)を後にして、上の地図の右手の幹線道路まで公園の中を進む事にする。

Img_0376_1  美術館の表から、公園の中の並木道を通って暫く行く。散歩の人とすれ違うが、とても静かな道だ。

 駅までは案内の看板が出ているので道に迷う事はない。

Img_0379  並木道を通り抜けると太い道路に突き当たる。公園の入り口には巨大な石でできた門のオブジェが有りなかなか良い感じだ。

Img_0382  暫く歩くと、甍道と言う道になる。道の入り口には鬼瓦の装飾がしてあるし、敷石にも瓦風のタイルが張ってあり、百人一首Img_0388が掘り込んであるロマンチックな道だ。

 象設計集団のデザインだろうと思って調べたらやっぱりそうだった。年表の1986年のところに用賀プロムナードと有る。

Img_0394  その後も王様とお妃様の玉座を思わせる椅子や、

Img_0393_2 和風庭園を思わせるベンチ、

Img_0404  狸の形をした水のみ場、

Img_0397 エッシャーの循環する水路がある塔の絵を髣髴とさせるような水路、

Img_0403 太鼓橋など、実に楽しい道だ。

 徒歩17分の道のりも全然苦にならない。天気が良い日は用賀公園まで是非徒歩で行ってみる事をお勧めする。

 頭痛がまだ完全に治まっていないので、続きはその4で。

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October 19, 2006

江戸・東京探訪:日本橋べったら市

 今日10月19日と明日、20日は、日本橋でべったら市が開かれている。先日東京メトロの新聞で読んで、「そうか19日と20日はべったら市が有るのか・・。」と思いはしたが、すっかり忘れていた私、朝、出勤途中に駅の出口に置いてあったパンフレットを見て、改めて思い出した。

 べったら市には帰りに行く事にして、とりあえずは仕事に(笑)。 仕事相手の分もパンフレットを貰ってきたから暫くべったら市の話題で盛り上がった。

 仕事が終わると、先ずはいつも通り千疋屋のCaffe di FESTAに。

 実は、今日は目先を変えて、三越新館地下2階に有るティーショップFORTNUM&MASONにでも入ってみようかと思い、見てみたのだが、ケーキセットを頼むと1500円ぐらいは取られてしまう。結局、コストパフォーマンスから考えて、やはりCaffe di FESTAになってしまった(笑)。

Ad8272f5b6f9877e083d24f10853bbf9 Caffe di FESTAでは、先日から、バナナシェイク、イチゴサンデー、夕張メロンソフトクリーム、イチゴシェイクと攻略してきたのだが(笑)今日は今週のサンデーのマロンサンデーにしてみた。

 マロンサンデーは、コーンの素材で出来ているカップの中にソフトクリームが盛られ、マロングラッセがトッピングされている。

 先ずはソフトクリームの上のマロングラッセから頂いたのだが、これが素晴らしい!いつもながらCaffe di FESTAのデザートには感心させられるが、その中でもこのマロンサンデーは、バナナシェークに並んで極上の味だった。

 マロンサンデーを十分堪能した後、日本橋べったら市へ。

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Dscn2221_1 日本橋べったら市は、江戸時代から続く伝統ある市で、宝田恵比寿神社を中心に、べったら漬けの店を含め、七味、飴細工など、沢山の露店が軒を連ねる日本橋の秋の風物詩だ。

Dscn2222_1  
元は、20日の恵比須講に必要なものを売るための市だったが、ここで売られるべったら漬けが評判になりべったら市とよばれるようになった。

Dscn2234  露天の中には昔懐かしい射的やカルメ焼き、七味などの他にも、韓国料理や中華料理の露天もあり、大賑わいだった。
 

Dscn2224 私は中華風おやき、餡餅(シャーピン?)を一つ頂いた。→
実はこれ、先日行った門前仲町の八幡様の縁日でも頂いたのだが、美味しかったので味をしめて、また買ってしまったのだ。

Dscn2231_1 日本の「おやき」に比べると皮は油で焼いてあるので、少しぱりぱりした感じで、中の具は、餃子や肉まんに入っている具のような感じ。形は薄いお好み焼きのような感じだ。 美味だった。

Dscn2229 一通りうろうろしてから、お土産用に、べったら漬けを一本買って日本橋を後にした。 

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 ところで、下の写真はあめ屋さん。リンゴあめは昔から有るけど、マンゴーあめや洋ナシあめって、どうやって食べるの???(笑)

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 その後、王子神社まで足を伸ばしたのだが、王子神社については後日紹介しようと思う。

 

 

 

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October 11, 2006

江戸・東京探訪:上野公園

 先週の水曜日、東大周辺を散歩して、本郷から上野公園方面に向かって歩いた。

 赤門前、竹久夢二美術館、上野公園と歩いて行ったのだが、今日は上野公園を紹介してみたいと思う。

 

Dscn1918  竹久夢二美術館を出ると、ほどなく変わった形の建物が見えて来た。

 「随分変わった形だけど、マンションかな?」と思いながら側を通り過ぎたが、どうやらホテルのようだ。 この建物、上野公園の不忍池方面から全体の形をよく見ることが出来た。

Dscn1948  ホテルからも上野公園が良く見渡せるのだろう。こう言う形の高層ビルが、古い歴史を感じさせる上野公園のすぐ側に建っているのが如何にも東京らしい。

Dscn1921  不忍池と通りを隔てた向かい側に横山大観記念館がある。実は竹久夢二美術館よりこちらの方を見たかったのだが(笑)、月・火・水は休館で入れなかったのだ。

Dscn1983  不忍池では、8月に殺人事件が起きたらしく、情報提供を促す警察の立看板が随所に設置されていた。被害者は路上生活者の可能性も有るらしいが、上野公園内にはホームレスの人達が随分沢山生活していて、猫まで飼っているようで、公園内でやたらと猫を見かけた。

Dscn1940  殺人事件の立看板に殺伐とした雰囲気を感じながら、不忍池の中島にある弁天堂に。弁天堂のご本尊は勿論弁天様(=弁才天、弁財天)なのだが、弁才天という呼び名は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー が仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名のようである。

Dscn1962  原語の「サラスヴァティー」は聖なる河を表わすサンスクリット語である。元々は古代インドの河神で、河の流れる音よりの連想から音楽神とされ、福徳神、学芸神などともされているようだ。

 不忍池の弁天様も長寿・福得の神とし、また音曲の神として信仰を集めている。

Dscn1951  上野公園一帯は、江戸時代、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であった寛永寺の境内であった。不忍池の中島は、寛永二年(1625)天海僧正が寛永寺を建立したとき、京都の比叡山に倣い山号を東叡山とするとともに、不忍の池を琵琶湖に見たて、池中に竹生島に擬して中島を築造し、弁天島と称したとされている。

Dscn1980  不忍池は琵琶湖に見立てられたもののようだが、やはり公園内にある清水観音堂(重文)は京都の清水寺に見立てたものらしい。「清水の舞台」で有名な京都の清水寺に倣い、上野の清水観音堂も小さいながら舞台がある懸造(かけづくり)建築である。

Dscn1974  清水寺に建物を模したばかりでなく、観音堂のご本尊の方も京都の清水寺と同じ千手観音であった。

 千手観音は仏教における信仰対象である菩薩の一つで、サンスクリットではサハスラブジャと言い、文字通り「千の手を持つもの」の意味だそうだ。

Dscn1979  本堂の脇に絵馬が掛けられているのを見ると、殆どが横文字だった。外国人観光客が絵馬を買い求めて願い事を書いて行くようで、私が行った時も外国人のカップルが絵馬を買い求めて、それぞれ願い事をマジックで書き込んでいた。

Dscn1995_1  観音堂を出て、その後、西郷隆盛(1827~77年)の銅像前に。

 上野公園の西郷隆盛の銅像は高村光雲作で、明治30年に東京市民の寄付金で作られた。有名なキヨソネの肖像画を基に作られたようだ。

Saigo_1  そもそも銅像の基になった肖像画自体、描かれたのは西郷が亡くなった一年後で、西郷の写真も無く、西郷と面識がなかったキヨソネは、似ていると云われていた実弟・西郷従道の顔上半分と、いとこ・大山巌の顔下半分の写真をつぎはぎして"復元"したものを基に描いたという。

 肖像画のモデルが本人ではないのだから、それを基に作られた銅像が本人に似ている筈がない。銅像の除幕式で、未亡人のイトさんが「宿んし(うちの主人)はこげんなお人じゃなかったこてえ」と呟いたという逸話があるが、顔が似ていないだけでなく、軍人であった西郷さんは、浴衣の着流しで散歩などしなかったと嘆いたそうだ。

Saigoutakamori  実は、最近になって(2003年)西郷隆盛の肖像画が大分県日田市で見つかっているが、肖像画と比べてみてどうだろうか・・・。

 因みに、鹿児島にある西郷隆盛像の方は軍服姿である。

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October 06, 2006

江戸・東京探訪:弥生美術館・竹久夢二美術館

 漱石の三四郎の中には東大の弥生門に関して以下のような記述が有る。

 あくる日は平生よりも暑い日であった。休暇中だから理科大学を尋ねても野々宮君はおるまいと思ったが、母が宿所を知らせてこないから、聞き合わせかたがた行ってみようという気になって、午後四時ごろ、高等学校の横を通って弥生町(やよいちょう)の門からはいった。往来は埃(ほこり)が二寸も積もっていて、その上に下駄(げた)の歯や、靴(くつ)の底や、草鞋(わらじ)の裏がきれいにできあがってる。車の輪と自転車のあとは幾筋だかわからない。むっとするほどたまらない道だったが、構内へはいるとさすがに木の多いだけに気分がせいせいした。

 三四郎 二 より

 熊本の母から届いた手紙に書いてあった、「勝田の政さんの従弟」にあたる「野々宮宗八」を三四郎が訪ねる場面である。

 上に有る、「理科大」は、現在の理学部、「高等学校」は第一高等学校のことで、後に世田谷区駒場に移り、今は農学部のキャンパスになっている。

Dscn1907_1 三四郎と同じ、熊本出身の田舎者で東京が嫌いな私は、しかし東大の弥生門の中には入らずに、代わりに門の前に有る「弥生美術館・竹久夢二美術館」に入った。

Dscn1904_1 「弥生美術館」は、昭和59年(1984)、「竹久夢二美術館」は、平成2年(1990)開館で、それぞれ弁護士兼理事長・鹿野琢見の高畠華宵コレクションと竹久夢二コレクションを展示公開している所謂私設美術館だ。二つの美術館は、それぞれ1階と2階部分の渡り廊下で繋がっている。

 すぐ近くに立原道造記念館も有るのだが、私は3館共通券を買って鑑賞する事にした。

  夢二の有名な作品、「黒船屋」は伊香保記念館の方に有る様だが、「竹久夢二美術館」にも日本画・油彩・書・原画・スケッチ・版画・デザイン・著作本・装幀本・雑誌、また書簡をはじめ夢二の遺品や資料など約3,000点を所蔵しているようだ。

 竹久夢二については、嫌いな画家ではないのだが、かといって特に好きと言うほどの画家でもない。

 最近こう言う絵画鑑賞には本当に根性が無い私は、絵の前を通り過ぎて、つらつらと鑑賞してしまったのだが、夢二の絵、特に掛け軸になっているものや屏風になっている大作は、流石にインパクトが大きい。

 特に黒の使い方が印象的で、伸びやかで奔放な筆遣いながら、画面を効果的に引き締めている。

222pxkurofuneya 「黒船屋」も、掛け軸として仕立てられた物の様だが、他の軸や屏風に仕立てられた夢二の絵を見て、「よく夢二の複製を額に入れているものが有るが、あれは例えばロココ風の家具を和洋折衷の住宅に据えるような愚だな」という感想を持った。

 やはり複製であろうとも、当時、掛け軸として仕立てられたものは掛け軸にして鑑賞するのが一番いいんじゃないかな?

Dscn1912 夢二は、「愛と放浪の画家」とか「漂泊の画家」と評される様に、その女性遍歴と放浪癖で有名な画家だが、館内には夢二と係わり合いが深かった女性達(岸他万喜・笠井彦乃・佐々木お葉など)の解説があった。

 代表作「黒船屋」は、お葉をモデルにして描かれた作品であるが、作品中の女性は実は後に結核で早世した笠井彦乃の面影を追って描かれた作品で、作品中の黒猫は夢二自身だと言われている。

 夢二は彦乃を「しの」と呼んでいたようだが、「しの」こと「笠井彦乃」は、享年25歳で肺結核で亡くなっている。

 夢二は裏に「ゆめ35、しの25」と刻まれたプラチナの指輪を終生はずす事が無かった様だ。

 

Kikuhujihotel  竹久夢二美術館が建つ東京・本郷は、夢二が滞在した菊富士ホテルがかつてあり、また最愛の女性、笠井彦乃と逢瀬を重ねた場所で、今なお昔の風情を留めて静けさと木々の緑に包まれている。 

 

 

 

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October 05, 2006

江戸・東京探訪:赤門

 昨日は、下の地図のように東大の周りを回って竹久夢二美術館や不忍池の回りもついでに散策。

Toudai_1

Dscn1890  先ず、最初は東大の赤門前に。

 東大といって思い浮かぶのは、「赤門」「三四郎池」「安田講堂」だが、赤門以外は東大の敷地に入らないと見ることが出来ないので一寸敷居が高い。

Dscn1893 三四郎池は漱石の著作にちなんでこう呼ばれるようになったものだが、先日紹介した「雁」を書いた鴎外は東京帝国大学医学部、漱石はやはり東京帝国大学の英文学科卒だから、自然と東大近辺の描写が多くなるのは当然といえば当然か・・。

 赤門をはいって、二人(ふたり)で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉(こいずみ)八雲(やくも)先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。
       
 
夏目漱石 『三四郎』 三 より

 赤門(元加賀前田家の御守殿門)は、文政10年(1827)11代将軍家斉の溶姫(やすひめ、或いはようひめと書いてあるものも有る)が13代藩主前田斉泰に嫁入りしたときに建てられた。江戸時代、大名家に嫁した将軍家の子女、あるいはその居住する奥御殿を御守殿あるいは御住居(おすまい)と称し、その御殿の門を丹塗(にぬ)りにしたところから俗に赤門とよばれた。
 赤門は、火災などで焼失してしまったら再建してはいけない慣習があり、東大の赤門は災害などを免れて現存している唯一の物のようだ。

Matsunosakae  右は、その溶姫の輿入れの様子を三代歌川国貞が想像を交えて描いた錦絵である。

 この溶姫、十一代将軍家斉(いえなり)の第三十四子で、(家斉は死産の子2人を含めると55人もの子女をもうけている)母お万の方は家斉後年の寵姫で家斉41歳の時に溶姫をもうけている。

 それにして、「55人の子供を生ませるには、何回同衾すればいいのかな~??(*^^*)」なんて考えてしまうのは、まだまだ修行が足りないかな?(笑)。
 

 下の二つは、それぞれ東大の正門(左)と弥生門(右)

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October 02, 2006

江戸・東京探訪:乃木神社

Dscn1638_1 金曜日、氷川神社で、散歩に来ていたご婦人に、「近くに乃木神社も有る」と教えられたので、道を聞きながら坂を登って乃木神社まで行ってみた。

 乃木神社は明治天皇が崩御された際に自刃した、乃木希典と静子夫人を祀る為に大正12年(1923)に建てられた神社である。

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 境内に入ると、お守りの見本が置いて有ったのだが、子供用のお守りは乃木大佐のイラスト入りだった。だけど、今時の子供で乃木大佐を知っている子はどれ位いるかなぁ?

 

Dscn1651 社殿は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲で消失。現在の社殿は昭和37年(1962)に復興されたもののようだ。

 この神社、脇に乃木会館が有り、乃木神社での神前挙式を済ませた後、隣で披露宴が出来るようになっている。

Dscn1653 この日も、神社に付き、隣の乃木邸の庭を散策してからお参りしようとしていたら、雅楽の音色が聞こえてきたので、猛ダッシュして神社の境内に。花婿と花嫁の行列が、雅楽の奏者に先導されて、今正に社殿へと向かうところだった。

  生の雅楽の音色は初めて聴いたが、物凄い音量だった。

Dscn1673_1 神前での結婚式を暫く遠巻きに見させて頂いたが、大音量の雅楽の音色と荘厳な神社の雰囲気とで、花嫁と花婿の三々九度の時には、全くの部外者ながら思わず目がウルウルなってしまった。

Dscn1702Dscn1693 この神社、隣に旧乃木邸と庭が保存されていて、今年は9月12日と13日(乃木大佐と静子婦人の命日)には乃木邸の内部も一般公開されていたようだ。

Dscn1709 乃木邸の脇の坂、「乃木坂」はかつて「行合坂」、「なだれ坂」や「幽霊坂」と呼ばれていたが、坂の中ほどに乃木邸が有った為、1912年乃木大佐の自刃とともに改名されたらしい。

Dscn1630  神社の創設といい坂の改名といい、当時、乃木大佐の死がどのような受け止められ方をされていたかが容易に想像できる。

 

Dscn1687 英雄として語られる乃木大佐だが、西南戦争で軍旗を奪われた事には生涯に渡り痛恨の念を抱いていたようだ。

 しかし、官軍方だった乃木少佐(当時)も、薩軍方の西郷隆盛も今は二人とも仲良く銅像になっている。

 日本と言うのは本当に不思議な国だ。

 そのうち上野公園の西郷さんの方にもお邪魔してみよう。

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September 28, 2006

江戸・東京探訪:深川不動

Dscn1479_1   今日は、関東三十六不動霊場二十番札所深川不動堂に行って来た。

 深川不動堂は、成田山新勝寺の東京別院である。

 

Dscn1506  成田山新勝寺は平将門の乱平定祈願のために建てられた寺である。江戸時代には、江戸でたびたび成田不動の「出開帳」(秘宝特別公開)が行われ、江戸で始めて出開帳が行われた深川永代寺の跡地が深川不動尊になっている。

Dscn1494  江戸時代、庶民のレジャーが少なかった頃、成田山詣でも盛んであったようだが、交通の便が悪かった当時、成田山本山に詣でるのが困難な人たちのために、度々出開帳が行われたようである。
Dscn1498  人が成田まで行けないなら、成田不動の御尊像(元は京の高雄山護摩堂に安置されていた空海作の不動明王)を江戸まで持って来ようという合理的な(?:笑)考え方だ。

 Dscn1509

 この寺、上に書いたとおり平将門を調伏するために朝廷によって建てられた新勝寺の別院であるから、神田明神(平将門の首塚の近くに有り、周辺で天変地異が頻発し、それが将門公の御神威として人々を恐れさせたため、将門も祀る様になった)とは犬猿の仲というべきか?(笑)

Dscn1510 そう言うこっとは露知らず、昨日は神田明神にも詣でている。早目に罰が当たったのかどうか不明だが、昨日は神田明神前の菓子屋に傘を忘れて来てしまった。

 正五九詣りと言い、成田山新勝寺では正月、五月、九月と、年に三回お詣りするのが良いとされてきたそうだが、今日はその9月の縁日、28日である。

 参道は大変な人出で、主に中高年の参拝者でごった返していた。

Dscn1502  境内に参詣して程なく、法螺貝の音が響き渡り、座主がお供の僧達と共に護摩焚きに本殿に現われた。

 お経は、「のーまく さんまんだー ばーざらだん せんだー まーかろしゃーだー そわたや うんたらたー かんまん」古代サンスクリット語で、「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ。カン マン。(仏様への呼びかけ)」と言う様な意味らしい。

 お参り後、私は脇の甘酒屋で一休み。天気が良く暑い日だったので甘酒は一寸・・・。と言う感じだったのだが、寺の門前でコーヒーでもないだろうと言う事で、甘酒に。

 程なくして、一人の店内に身なりの良いご老人が客として来られたのだが、この方この甘酒屋のおばあさんの知り合いらしく、89歳の誕生日を無事に迎えられた事のお礼参りに来たらしい。

 おばあさんとひとしきり話しているのに途中から私も話しに参加させてもらったのだが、おじいさんは震災の時6歳位だった話や、おばあさんの女学校時代の話、この間の大戦(とおばあさんは言っていた)の3月10日(東京大空襲の日)に焼け出され、命からがら逃げた事、大八車に家財道具を積んで逃げた人たちの荷物に火が付いた為に延焼が広がった事(震災時か空襲時だったかは不明)、亡くなった人達の亡骸に埋もれて、火傷を免れ助かった人がいたことなど・・・、非常に興味深い話を聞くことが出来た。

 40代後半の私にとって、高校時代はもう30年も前の事であるのだが、それ程昔の事の様には感じられない。同様に、「90歳近いご老人にとっては昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲(深川地区に初弾が投下された)も、たかだか61年前の出来事と言った感覚だろう」と、妙に納得して話を聞いてしまった。

 

 

 

 

 

 

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September 27, 2006

江戸・東京探訪:旧岩崎邸

Dscn1385_2 病院の予約まで時間が有ったので、旧岩崎邸にも寄ってみた。

 湯島天神が泉鏡花の「湯島の白梅」で有名な場所なら、旧岩崎邸は森鴎外の小説「雁」の舞台となった無縁坂の隣に位置している。

 Dscn1390_2 「雁」は、「僕」の回想という形で綴られている小説だ。学生であった「僕」の下宿の隣部屋の住人でやはり医科大学の学生の「岡田君」と、下宿近くの無縁坂に住んでいた高利貸しの妾であった「お玉さん」との淡い恋物語である。

 岩崎邸について記述が有る部分(弐)は特に重要な岡田とお玉さんの出会いの場面に続くのだが、初めの部分を部分を小説から抜粋してみる。

 そのころから無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍々(ぎぎ)たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、歯朶(しだ)や杉菜が覗いていた。あの石垣の上あたりは平地だか、それとも小山のようにでもなっているか、岩崎の邸の中に這入って見たことのない僕は、今でも知らないが、とにかく当時は石垣の上の所に、雑木が生えたい程生えて、育ちたい程育っているのが、往来から根まで見えていて、その根に茂っている草もめったに苅(か)られることがなかった。

 
Dscn1395_1  小説の舞台となったのは明治13年、1880年であるから、1896年に建てられた洋館部分は小説の舞台となった当時は、まだ出来ていなかった事になる。

 鴎外は昔から好きな作家であったが、今「雁」を読み返してみると、また新鮮な感動を覚えるのに驚く。
 
 Dscn1415 岩崎邸の古色を帯びた建物よりも、小説の舞台となった明治13年は尚古いのだが、それでも人間の感情の機微というものはそう簡単には変わらないものらしい。

 下の部分などは、特に今回「雁」を読み直して感心した部分なのだが、実に良く女心を捉えていて正に感服してしまうのである。

 
 岡田に蛇を殺して貰った日の事である。お玉はこれまで目で会釈をした事しか無い岡田と親しく話をした為めに、自分の心持が、我ながら驚く程急劇に変化して来たのを感じた。女には欲しいとは思いつつも買おうとまでは思わぬ品物がある。そう云う時計だとか指環(ゆびわ)だとかが、硝子窓の裏に飾ってある店を、女はそこを通る度に覗(のぞ)いて行く。わざわざその店の前に往こうとまではしない。何か外の用事でそこの前を通り過ぎることになると、きっと覗いて見るのである。欲しいと云う望みと、それを買うことは所詮(しょせん)企て及ばぬと云う諦(あきら)めとが一つになって、或る痛切で無い、微(かす)かな、甘い哀傷的情緒が生じている。女はそれを味うことを楽みにしている。それとは違って、女が買おうと思う品物はその女に強烈な苦痛を感ぜさせる。女は落ち着いていられぬ程その品物に悩まされる。縦(たと)い幾日か待てば容易(たやす)く手に入(い)ると知っても、それを待つ余裕が無い。女は暑さをも寒さをも夜闇(よやみ)をも雨雪(うせつ)をも厭(いと)わずに、衝動的に思い立って、それを買いに往くことがある。万引なんと云うことをする女も、別に変った木で刻まれたものでは無い。只この欲しい物と買いたい物との境界がぼやけてしまった女たるに過ぎない。岡田はお玉のためには、これまで只欲しい物であったが、今や忽(たちま)ち変じて買いたい物になったのである

 
 「欲しいと思っても、買うことが叶わないものは、初めから諦めたほうが良い。仮に偶然手に入ったとしても、自分の手に余るものは手元に置かないほうがむしろ良いのだ。」・・と、そんな事をふと考えながら、無縁坂を一人登っていった。

 
 

 

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江戸・東京探訪:湯島天神

 平安時代&祟りというと、映画「陰陽師」の世界を想像してしまうのだが・・・。「陰陽師」の安倍晴明(921~1005年)より、少し遡った時代の菅原道真(845~903年)もやはり祟りで有名になった人である。

 道真は、宇多天皇の藤原氏牽制の政治的意図も有り、天皇に重用され右大臣にまで昇ったが、左大臣藤原時平に讒訴され大宰府へ権帥として左遷され、2年後失意のうちに没したと言われている。

 道真没後、策略に加担した者達が次々と死に、また930年(=道真が没して27年後)には平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなるという事件が有った。

 現代の感覚で言うと、没後27年もして宮中に雷が落ち死亡者が出たからといって、それが即、道真の祟りだという発想には結びつかないかも知れないが、時は何しろ平安時代。不吉な事、人知が及ばない事は、怨霊の祟りだと恐れられても不思議は無い。

 陰陽師として有名な安部清明が道真の少し後の時代の人であるという事実も、道真の祟りが恐れられた時代であると考えると成る程と合点がいく様な気もする。権力者達は自分も怨霊の祟りを受けては堪らんと思い、清明などの陰陽師を重用したのかもしれない。

 ともあれ、道真公の学者としての名誉を回復し、学問の神として祀ることでたたりを鎮めようとしたのか、各地に「天神様(雷の神)」を祀る神社が存在するわけだが、有名な大宰府天満宮はもとより、東京十社の中にも亀戸天神が入れらている。

Dscn1346  今日、最初に立ち寄ったのはその「天神様=菅原道真」を祀る神社の一つ、「湯島天神」。湯島聖堂もそうだが、湯島という特別な地に有る事もあって、受験シーズンには大賑わいする神社のようだ。

Dscn1347 湯島天神の御祭神は天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)と菅原道真公(すがわらのみちざねこう)。458年1月創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、後の1355年2月道真公もあわせて奉祀したようだ。

Dscn1359Dscn1358_1  

 現社殿は平成七年に総檜造りで造営された物のようで、色彩も鮮やか。

 

Dscn1366 Dscn1367

 神社巡りが高じて、こちらでついつい御集印帳を購入してしまった。

Dscn1355  有名な泉鏡花の「婦系図」のお蔦の言葉 
「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。」

 この台詞の舞台は、湯島境内と言う事になっている。

Dscn1356_1  因みにお蔦のモデルは後の泉鏡花夫人、伊藤すずさんで、神楽坂芸者の桃太郎。早瀬は泉鏡花自身、先生は、師である尾崎紅葉だそうだ。

 泉鏡花の師、尾崎紅葉は二人の関係を絶対に許さず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。二人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっていると言われている。

 紅葉の没後、鏡花はすずと結婚するのだが、終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。

 泉鏡花は金沢市生まれ。10歳の時に母を亡くしており、終生追慕の対象であった。

 

 

 

 

 

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September 17, 2006

江戸・東京探訪:湯島聖堂

Dscn1207_1 金曜日、仕事の後に、MRIの予約を入れておいたのだが、予約していた時間までに1時間半ほど余裕が有ったので、御茶ノ水の駅で降りて、湯島聖堂に行って来た。

 湯島と言えば菅原道真を祀る湯島天神が有名だが、湯島聖堂も学業成就にご利益が有る聖堂らしい。

Dscn1209_1  但しこちらは道真ではなく孔子を祀っている聖堂で、儒学に重きをおいた文治政治を重んじた5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟である。

Dscn1227_1 もともとは1632年(寛永9年)徳川幕府の政治顧問であった林羅山が上野忍が岡(現在の上野公園)に建てた孔子廟「先聖殿」を移築したものであるが、現在見られる建物は1923年の関東大震災で全焼した為1935年昭和10年)鉄筋コンクリートにて再建されたものである。

Dscn1225  大成殿は、屋根の上に鎮座している青銅製の鯱(しゃちほこ)「鬼犹頭(きぎんとう)」と、猫科の動物を連想させる霊獣、「鬼龍子(きりゅうし)」が印象的な建物だ。

 「鬼犹頭(きぎんとう)」は建物を火災から守る水の神とされており、さらに、屋根の四隅で睨みをきかせている「鬼龍子(きりゅうし)」は、孔子のような聖人の徳に感じて現れるという言い伝えが有るらしい。

Dscn1224 Dscn1228

 学問の神様「孔子」を祀る霊廟らしく、境内には学業成就の絵馬が沢山奉納されていた。

 私もご利益に預かりたく、一つ奉納してきた。

Dscn1204  近隣には東京医科歯科大などの文教施設が有るが、ここは元は昌平坂学問所が有った場所であるらしい。

Dscn1205  近くある聖橋の名はニコライ堂と湯島聖堂の間に架けられた橋であることから名づけられている。

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 ニコライ堂の方も、御茶ノ水駅から歩いてすぐのところにあるので、近い内に仕事帰りにでも寄り道してみるつもりだ。

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