江戸・東京探訪:お寺編

May 23, 2008

江戸五色不動:目黄不動

Rimg0645  今日は平井に有る「目黄不動」に行って来た。

 「目黒とか目白と言うのは良く聞くが、目黄って言うのは初めて聞いたな~」と思っていたら、何と目赤や目青不動も有るらしい。青、黄、赤、白、黒全部で5色有るから五色不動と呼ばれているらしいのだ。

Rimg0646 五色不動

①目黒不動・・・瀧泉寺(目黒区下目黒3-20-26)
②目白不動・・・金乗院(豊島区高田2-12-39)
③目赤不動・・・南谷寺(文京区本駒込1-20-26)
④目青不動・・・教学院(世田谷区太子堂4-15-1)
⑤目黄不動・・・最勝寺(江戸川区平井1-25-32)
         永久寺(台東区三ノ輪2-14-5)

Rimg0652  青、黄、赤、白、黒は、梵語で地、水、火、風、空を表すとされているらしい。徳川家光はこの五色をもって不動の目とし、東西南北中央の五方眼で江戸を守るため、五色不動を指定したらしい。

 実際の目黄不動の目は、黄色ではなく金箔と黒で表されていたが、「他のお不動さんも巡ってみようかな~」と思案中だ。

Rimg0650  「東京十社巡り」「江戸六地蔵巡り」をしてから、暫くこういう、「幾つかの神社やお寺をセットで回る」という回り方はしていない。今日行った最勝寺と同じ目黄不動の永久寺は、元々は一つのお寺だったようだが、残りの5つを順番に回ってみても良いなぁ。

 ・・・ところで、他のお不動さんは御開帳しているだろうか?一寸心配。

 

 

April 27, 2008

言問通り&谷中霊園

 先週、言問通りから谷中霊園を通り日暮里駅まで散歩したので、途中で見た面白い物を紹介してみる。カメラを持って行っていなかったので携帯で撮影したので今一写りが悪いが御容赦のほどを。

Nec_0036  先ずは吉田屋酒店。現在、下町風俗資料館の付設展示館として使われているこの建物は谷中6丁目で江戸時代から代々酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を移築した物のようだ。明治43年築とあるから、1910年築、つまり築98年って事かな?実は夫の実家の方が古かったりして(笑)。

Nec_0038  次は愛玉子(オーギョーチ)のお店。店のインテリアは昭和初期~中期のまま時間が止まってしまったよう。

 あまり冷えていない愛玉子のレモンシロップの味も昭和の味。本物の昭和レトロを楽しみたい人にはお勧めの店だ。

Nec_0045  谷中霊園の中央園路。桜の季節はさぞや綺麗だろうと思わせる並木だが、今は訪れる人もまばらで、泣き交わすからすの声だけが異様に響いて何ともおどろおどろしい雰囲気。

Nec_0041  それでも意を決して墓地の中を散策し、徳川慶喜のお墓に手を合わせて来た。

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Nec_0044_2    慶喜の墓の柵の脇の道。地面が八重桜の花びらで覆いつくされていた。
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Nec_0049  谷中霊園は、かつては、隣に有る天王寺の寺域の一部で、桜の並木が見事な中央園路は天王寺の参道だったようだ。境内は手入れが行き届き、八重桜とつつじがとても綺麗だった。

Nec_0053  本堂の左手に有る「銅造釈迦如来坐像」は、1690(元禄3)年に作られた仏像で「天王寺大仏」の名で親しまれている。

 

 

September 16, 2007

井の頭公園:弁財天

Nec_0156_3  今日は、次男と一緒に、中学校の体験授業を受けに行き、帰りに井の頭公園の弁財天に寄ってお参りして帰った。

 井の頭公園では、先日池で次男とボートに乗った事があった。この公園、入園料を取らないので、多くの市民が散策や犬の散歩やランニング、それに楽器の演奏などのパフォーマンスをしている。

Nec_0151_2 「パフォーマンスが多い所と、入場料無料の都営の立派な公園と言う所は上野公園に一寸似ているなぁ」と思ったのだが、井の頭公園は「井の頭恩賜公園」上野公園は「上野恩賜公園公園」とも呼ばれているから、どちらも宮内省から東京都に下賜された土地に作られた公園のようだ。

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Nec_0152_2  江戸時代、上野公園は東叡山寛永寺の境内であった。一方、井の頭公園内に有る「井の頭池」は、初めて江戸にひかれた水道、神田上水の源であったようで、「井の頭」の意味は「上水道の水源」「このうえなくうまい水を出す井戸」という二つの説があるようだ。


Meisyoedohyakkei_inokashiranoike_2  井の頭池は、広重の名所江戸百景の87に 「井の頭の池弁天の社」と言うタイトルで描かれている他、同じく広重の名所雪月花でも、「井の頭の池弁財天の社雪の景」と言う題名で描かれている。江戸時代、この地は既に、風光明媚な江戸の名所として知られていたようだ。

 この由緒正しき弁財天のご利益が有るように、今日は体験授業の帰りに合格祈願の絵馬を奉納して来た。

Meisyosetugetuka_inokashiranoike  江戸時代の井の頭池は、きっと水が綺麗だったのだろう。タイムマシンが有ったら見てみたいものだ。

 

July 11, 2007

ほおずき市:浅草寺

036_1  昨日、仕事の後におずき市に寄って帰った。

 浅草寺のほおずき市は、毎年7月9日、10日と決められているようだが、今年は月曜日・火曜日と平日になったので、激混みと言うほどではない程度の混みようだった。

035  大体、浅草寺は、土日に行くといつも人でごった返しているのだが、昨日は丁度、普通の土日程度の混みようと言った感じだった。

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054  境内では、ほおずきの他軒しのぶも売られていた。お店の人を見たら、あらら、亀戸天神の藤祭りで焼き鳥を焼いていたおじさんだ!実はこのおじさん、谷中の朝顔市でも朝がおを売っていたのを見掛けたのだが、ほおずき市でも軒しのぶとほおずきを売っていた(笑)。

039  私はどちらかと言うと軒しのぶが欲しかったのだが、ほおずきは風鈴付で2500円、しのぶも風鈴付で3500円からと、しのぶの方が一寸高かったし、おじさんがほおずきを500円負けてくれると言うので、ほおずきを買って帰ることにした。

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064   ほおずきの柄の団扇を買って、焼きたての人形焼なんぞを昼ごはん代わりに頬張りながらそぞろ歩きしつつ帰ったのだが、雷門の向かい側にある、」「浅草文化観光センター」のからくり時計が丁度動きだした。

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Rimg0003_2  地下の駅に降りて、ホームででほおずきをぶら下げていると注目度満点だった(笑)。そう、これからほうずき市に出かける人が、こぞって見て行くのだ。

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053_1  ホームで電車を待っている間も、隣のおばちゃんに話しかけられて暫くほおずき市の話を。隣の人は、浅草寺でほおずきは買わずに雷よけのお守りを3つ買って来たらしい。

 実は浅草寺の雷よけのお守り、本で見た事は有ったのだが実物がいつ配られるのかは知らなかった。069_1 7月9日と10日のほおずき市の日だけの限定お守りのようなのだ。

 そうと知っていたら買っておけばよかった・・・。と思ったが、もう後の祭り。電車の車内でもその女性と暫く話しながら帰ったので、お守りを袋から出して写真を取らせていただいた。

055_1  最近お寺参りが高じて、次男をお供に連れて行くことがしばしば有るのだが、昨日ほおずき市と雷よけのお守りの話を夫にしたら、夫も今日仕事帰りに浅草寺に寄って来たようで、欲しかった雷よけのお守りを頂いて来てくれた。我が家もこれで今年は雷に当たらずに済みそうだ。

052  7月10日の功徳日にお参りすると、四万六千日分に相当するご利益が有ると言われているようだから、今日お参りした夫は、一生分のご利益を頂いたことになるのかな?

 

 

 

July 07, 2007

朝顔市:入谷鬼子母神(真源寺)

Nec_0013 例によって、仕事の後に千疋屋で、今週のソフトクリームを食べてから、ビルの外に出ると、朝顔の鉢を持っている人があちらから歩いてくるのを見かけた。

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Nec_0014_2  そうだった、今日から(日付が変わったので昨日)入谷の鬼子母神で朝顔まつりをやっているんだった。

 そうと知ったら見逃す訳にはいかない。そのまま地下鉄で入谷駅に向かう事にした。

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Nec_0030  入谷駅の出口を出ると、鬼子母神は何処か探して地図を見るまでも無く沿道は凄い賑わいだ。

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Nec_0028  鬼子母神が有る通りには歩道に沿って朝顔の出店が、道路を挟んで向かい側の歩道には、食べ物等の出店がずらっと並んでいる。

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Nec_0016  朝顔を売っている店の店先には、朝顔のはっぴや朝顔の柄の手ぬぐい等をした売り子さんも大勢いたのだが、お客が買った朝顔の地方発送をする宅急便のお兄さんの姿が目立った。

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Nec_0022_1  沿道ばかりではなく、そう広くない鬼子母神の境内にも、朝顔の鉢が所狭しと並べられて売られていた。

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Nec_0021_1  境内ではまた、朝顔の造花が付いた「朝顔守り」が売られており、買い求めた人にお守りを渡す前に、火打石を鳴らしてム妙法蓮華経」と念仏を唱えて渡している。そう、入谷の鬼子母神(真源寺)は法華宗のお寺だったのだ・・・。
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Nec_0025  入谷の朝顔市は、江戸後期頃から入谷の地で盛んだった朝顔栽培を人々に見せるために、鬼子母神の敷地内で栽培農家が披露したことがその起源であるようだ。

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Rimg0621  江戸の人は園芸好きだったようだが、朝顔などの鉢植えは当時から庶民の間でも愛好されていたのだろう。浮世絵の中にも朝顔売りを描いた物がある。

 神社の境内でも、朝顔に関連する浮世絵を印刷した物が4枚1000円で売られていた。買おうかどうしようか迷ったが、版画ではなくて印刷物だったので結局買わずに、代わりに御朱印だけ頂いてお参りしてから境内を後にした。

Nec_0019_1  混み合った寺を後にして、朝顔を一鉢買って帰ることにした。6号鉢の行灯作りで、一鉢2000円とどの店も均一料金で売られていた。日本朝顔は、一鉢に大体3色の朝顔が植えられている物が多かったが、琉球朝顔か(?)、多年草の朝顔と称する物や、その他つる無し朝顔など、変わった朝顔も売られていた。
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Sibaraku_2  日本朝顔の中で特に人気が有ったのは、「団十郎」と言う名前の朝顔のようだった。この朝顔、ピンクがかった薄茶と言った色合いで、歌舞伎役者の五世市川団十郎(1741~1806)が狂言「暫」で着けた袴の色、「団十郎茶」に近いことから、この名が付けられたようだ。

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1311881   江戸時代から現代まで、朝顔のディープな愛好家には、このような渋めな色が好まれているらしい。えせ朝顔愛好家の私も、通が好む色と有っては見過ごす訳には行かない。早速「団十郎」が入っている朝顔を買い求めて入谷を後にした。:
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Nec_0017_1  朝顔を持ち帰る途中、葉が大分擦れてしまったのだが、帰りに一回り大きい7号鉢を買って、家に帰ってから早速植え替えた。2~3日して根が落ち着いた頃を見計らって肥料をやる事にしよう。

 私は以前花壇で朝顔を沢山育てた事が有るのだが、化成肥料をやり過ぎて、葉が子供の顔ほども巨大になり、花も大量に付いてびっくりした事が有る。驚いたのはそれだけではない、葉に青虫がいたのだが、その青虫も超巨大に育ったのだった。

 団十郎が種を沢山付けたら、来年はその種で朝顔を育ててみることにしよう。

 

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November 04, 2006

江戸・東京探訪:江戸六地蔵

 薬の副作用かもしれないが、先日から、横になっている時などに、(主に)足や手の不随意運動が起きて一寸不思議に思った事があった。

 ふと、イタコの口寄せなどを連想してしまい、「イタコ」と呼ばれる人たちはどういった人たちなのだろうと言う疑問が湧いた事がある。

 調べてみたら、「イタコ」は、かつては先天的もしくは後天的に目が見えないか、弱視の女性が生活の糧を得るための職業であったようだ。イタコになるためには先輩のイタコに弟子入りして厳しい修行をしなければならないため、今は盲目や弱視の女性がイタコになる伝統は廃れてきているようだ。

 その、イタコで有名な恐山を開いたのは慈覚大師円仁と言われている。今から約1200年前、大師が唐で修業していたところ、夢の中で「国に帰り、東方行程30余日の所に行けば霊峰がある。そこに地蔵尊一体を刻み、その地に仏道を広めよ」とお告げを受けた。ただちに帰国して諸国を行脚したところ、ついに夢のお告げと符合する地を見つけた。それが恐山なのだそうだ。

 この恐山開山の話にも地蔵菩薩が出てくるのだが、地蔵菩薩とはどう言うものなのだろう。

 仏教では、この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう)の6つのいずれかに転生し、これら六道で生死を繰り返す(六道輪廻)と言われている。この六道を輪廻する衆生を救う菩薩が、地蔵菩薩であるとされているようだ。

 地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られるのは、、この六道輪廻の思想に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたもののようだ。

 「六地蔵」は六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であると言う思想の基、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多かったようだ。

 

Dscn2095_1 先月、東京十社巡りの途中(8社目だっただろうか)に寄った品川神社で、偶然退職者の品川宿巡りグループにご一緒させて頂いた事があった。ボランティアのガイドの人の解説付きで、品川神社の後に品川宿を歩き、色々な神社やお寺を回ったのだが、その一つに品川寺があった。そのお寺で奇しくも江戸六地蔵の1番に出会った。

Dscn2106_2  最近、東京の昔に興味を持ち始めて、色々な本を読んでいるから、江戸六地蔵の存在は知っていたのだが、江戸六地蔵がどのお寺に有るのかと言う事は憶えていなかった。東京十社巡りが終わったら次はどこにしようか考えていた矢先に、偶然にも品川寺で江戸六地蔵の1番に出合ったと言う事は、「次は六地蔵巡りをしろ」という事だろうと、妙に納得してしまった私、天の声に従い(笑)、残りの5つのお地蔵様があるお寺を探して回ってみることにしたのだ。

 
 こうして品川寺の地蔵尊を皮切りに、江戸六地蔵巡りを始める訳だが、6番目のお地蔵様は廃仏毀釈により廃寺になった旧永代寺に有った為失われていた。永代寺の名前を受け継いだ寺(永代寺塔頭であった吉祥院)も、偶然、東京十社巡りの途中で訪ねており、御集印も頂いていた。

 そのお永代寺も含め、今日は下に江戸六地蔵の写真を紹介してみる。
 江戸六地蔵の縁起その他については、詳しく説明しているホームページがあるのでここでは改めて説明しない事にする。
 

江戸六地蔵

1番 品川寺 (東海道)
Dscn2089_1  予定もせずに偶然出くわした品川寺の銅製のお地蔵様は、素晴らしく気品があり、大きいお地蔵様だった。私は、見るなりすぐに、江戸六地蔵のお地蔵様だと分った。

 銅製の坐像で、笠は失われたのだろうか、六地蔵の他のお地蔵様と違いこのお地蔵さんだけ笠を被っていない。

Dscn2104_1  銅製の坐像のお地蔵様だから、丁度鎌倉の大仏様を小ぶりにして、江戸時代風のお顔立ちにして、お地蔵様のポーズをとるとこんな感じかな?(笑)

Dscn2101_1  品川寺内には、この江戸六地蔵一番のお地蔵様の他、大梵鐘(国指定重要美術品)や樹齢300年の銀杏の木などがある。

 その他、この寺で印象に残ったのは戦死したと思われる軍馬や軍用犬を型取った慰霊碑だった。Dscn2105_1以前千葉県でも墓所と思われる場所に馬の形の石像があってびっくりした事があった。昔は馬などの動物と人とがもっと近い関係だったのだろう。

2番 東禅寺 (奥州街道)
Dscn2364_2 東浅草に有り、バスを降りてからも暫く迷って何回か道を聞いた。通りがかりの年配のご婦人に道を尋ねたら、お地蔵様の事を「金仏(かなぶつ)さん」と言っていたのが印象的だった。

Dscn2368_1  お地蔵様の左手には、アンパンで有名な木村屋の開業者「木村安兵衛、ブン夫婦像」があった。夫婦は、この寺に埋葬されているそうだ。

3番 太宗寺 (甲州街道)
Dscn2522  新宿御苑駅からすぐのところに有るお寺で、一等地に有るにも拘らずかなり広い敷地を今も維持しているのが不思議だった。

 お寺の本堂も大変モダンな建物だ。

Dscn2528_1  この寺、六地蔵ばかりでなく、衣を剥ぎ取るという事から遊郭商売の神様として信仰された脱衣婆や閻魔大王の巨大な木像もお堂の中に納められていた。その外にも、塩かけ地蔵などもあり、見所が沢山有るお寺だ。

Dscn2524  寺の中には新宿のいわれ等を説明した看板が立てられていて、写真を撮りに来たと思われる参拝者も結構多かった。

Dscn2523  江戸時代、このあたり一帯は内藤大和守の屋敷だった。内藤氏はこの辺りに布陣し、家康が江戸に入るのを護衛したため、家康は、内藤氏が布陣していた土地をそっくり与えたと言われている。東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保という約25万坪という広大な土地だったようで、内藤氏の屋敷跡は、現在新宿御苑になっている。

 寛永年間に、内藤氏の屋敷の一部が宿場となり、「内藤宿」と呼ばれた。さらに元禄時代には、甲州街道沿い一帯が新しい宿場となり、これを「内藤新宿」と呼んだ。「新宿」の名前の由来である。

 「内藤新宿」は、おびただしい数の飯盛女で名高い宿場として、幕末期には旅籠屋というよりは妓楼といった方がいいような店が軒を連ねるようになっていた。

 漱石は、その内藤新宿の妓楼だった建物に住んだ思い出を、『道草』の中で書いている。漱石が住んだ時期は、娼妓が禁止され、無人となっていた時期だったようだ。

 行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。

 不思議な事に、その広い宅(うち)には人が誰も住んでいなかった。それを淋しいとも思わずにいられる程の幼ない彼には、まだ家といういものの経験と理解が欠けていた。

彼は幾つとなく続いている部屋だの、遠くまで真直に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のやうに考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいらじゅう駆け廻った。

 彼は時々表二階へ上って、細い格子の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。

 
『道草』にはさらに太宗寺のお地蔵様で遊んだ幼い日の漱石の思い出が綴られている。

Dscn2516  路を隔てた真ん向うには大きな唐金(からがね)の仏様があった。その仏様は胡坐(あぐら)をかいて蓮台の上に坐っていた。太い錫杖(しゃくじょう)を担いでいた。それから頭に笠を被っていた。

 健三は時々薄暗い土間へ下りて、そこからすぐ向う側の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へよじのぼった。着物の襞(ひだ)へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。

4番 真性寺 (中仙道)
Img_0215  巣鴨駅のすぐ側に有るお寺さんで、平日にも関わらず参詣の人で賑わっていた。このお寺のお地蔵さんは笠を深く被っている。

Img_0213  関東大震災後に修復した時の写真では笠を被っていないから、修復の際に新調されたのかもしれない。

 また、真性寺一帯は、昭和20年4月13日の巣鴨大空襲でほぼ壊滅状態になったようだ。

Img_0216  今はのどかに境内で菊祭りが行われていて、お地蔵様のお尻の後ろにまで菊の花束が飾られていたのが一寸おかしかった。

Img_0232  江戸六地蔵がある「真性寺」と、刺抜き地蔵や洗い観音で有名な「高岩寺」を結ぶ商店街は、「巣鴨地蔵通り商店街」と呼ばれている。おばあちゃんの原宿の異名の通り、沢山の中高年の参拝者で賑わっていた。中でも車椅子に乗せられた超高齢と思われる方達が、介護の人に車椅子を押されて散歩に来ていたのが印象的だった。

5番 霊巌寺 (水戸街道)
Img_0148  清澄白川駅のすぐ側に有るお寺で、こちらも好立地にも拘らず広々とした空間を維持している。それに、本殿も新しい。

Img_0144  脇にこの寺が経営していると思われる幼稚園があり、色付き始めた紅葉が美しい静かな境内は、お迎えの時間には若いお母さん達やお母さんの代わりにお迎えに来たと思われるおじいちゃん等で一杯になった。  

Img_0151 お地蔵様は境内の左手に有った。手入れの行き届いた植木に囲まれ、笠を比較的浅めにかぶっているのでお顔も良く見える。

Img_0202  境内には天明7年(1787)に老中となり寛政の改革を断行し、札差統制(旗本、御家人などの借金救済)七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の建て直しを計った松平定信の墓所がある。

Img_0195  寺の裏手にある墓地の前には、石造りの六地蔵が、幼稚園帰りの子供達の歓声をよそに静かに佇んでいた。

 近隣には霊巌寺の他にも多くのお寺が有った。

6番 永代寺 (千葉街道)
Eitaiji  富岡八幡宮別当であった旧永代寺は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大なお寺であったが、明治元年(1868)の神仏分離令を契機に行なわれた廃仏毀釈により廃寺となってしまった。Eitaiji_1 旧永代寺にあった江戸六地蔵の6番目のお地蔵様は、鋳潰されて今は失われている。

 旧永代寺の庭は、江戸時代に「江戸名所図会」や広重の「名所江戸百景」の中にも描かれた有名な庭園で、かつては桜と牡丹の名所であった。

Dscn1483_2  永代寺の名称は、明治29年(1869)に、永代寺塔頭であった吉祥院に受け継がれている。写真は現代の永代寺。深川不動の門前にある。

 江戸六地蔵巡りを終え、一番感じた事は、「一旦失われた文化遺産は二度と元には戻らない」という事だった。名刹であった事が想像される旧永代寺の庭も、6番目のお地蔵さんも元には戻らない
 
 戦争や、政治・宗教などの理由により貴重な文化遺産を破壊する愚かな行為はもう止めるべきだと思う。

November 03, 2006

江戸・東京探訪:柴又帝釈天

Img_0250_1   珍しく家族で(長男以外の)柴又帝釈天に行って来た。最初は浅草の浅草寺に行く予定だったのだが、普段の日でも人が多い浅草寺、今日は時代祭りが有るからいつもより以上に人が多いだろうという事で、帝釈天の方に変更したのだ。

Img_0255  帝釈天の門前町は、ご存知フーテンの寅さんで有名だが、柴又駅の駅前広場には寅さんの銅像が有った。お店の中にも寅さんの撮影が行われたとかモデルになったと宣伝しているところが有った。

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 高齢化により寅さんを知る人の年齢もだんだん高くなって行くと思われるが、門前町で商売をしている人達は特に、渥美清さん亡き後、新しい俳優さんで新たな寅さんシリーズのリメイクが作られる事を期待しているんじゃないかなぁ~。新しい寅さん役の俳優さんは劇団一人なんてどうだろうか・・・。

Img_0248Img_0270Img_0271 

■ 

 門前町には美味しそうな草団子や、せんべい屋、土産物屋や和食のお店などが軒を連ねていた。達磨や招き猫などの縁起物のお店や団子の実演販売のお店なども有り、お土産を買う人で賑わっていた。

Img_0253 丁度お昼時だったので、私たちも川魚料理で有名な川千家(かわちや)と言う和食のお店で食事をすることにしたのだが、ここは有名なお店らしく、順番待ちをして(10組位待っていた)やっとテーブルにつく事が出来た。。

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 待ったかいあって、料理はなかなか美味しかった。夫は柳川鍋、鯉のあらい、私は天重、次男は鰻重をそれぞれ頼んだのだが、美味だった。

Img_0294  帝釈天の正式名称は経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基されたお寺だ。ご本尊は日蓮上人が彫ったという帝釈天だが、帝釈天とはインドラと呼ばれるインドの軍神・武勇神らしい。

Img_0272 ご本尊が軍神と言うだけあって、お守りの中には折り紙などで折る兜の形をした「加太守(かぶとまもり) 」と言う物も有るようだ。

Img_0311 帝釈天は、本堂の前に植えられた松ノ木や、山門やお堂の彫刻などが見事な美しいお寺だが、帝釈堂の内外に彫られている彫刻は法華経の説話を題材にしており説話彫刻と言う物らしい。

Img_0319  隣接する建物の内部や、庭園も一般に公開されていて、長い渡り廊下を歩いて見て回れるようになっている。庭や建物の内部も素晴らしかったが、渡り廊下そのものもまるで迷宮へと続く廻廊のようで、なかなか雰囲気が有る。

Img_0330 境内では傘回しや水芸などの大道芸をしていた人がいたが、聞けばこの方、先日東京都美術館の中庭で芸をしていた女性と同じ、大江戸太神楽の人らしい。

Img_0252  境内は七五三などの人で賑わっていたので(七五三は神社と思っていたが、寺でも七五三の法要をしているようで、晴れ着を着た親子連れが結構沢山来ていた)今日は結構実入りが良かったんじゃないかな?(笑)

Img_0299  夫と次男はその後金町浄水場や矢切の渡しに寄ったようだが、私は朝プレドニンを飲み忘れて、しかも、いつも薬を飲み忘れた時の為にピルケースに薬を一式入れて、常に鞄に入れているのだが、先日飲んだまま補充するのも忘れていた。プレドニン不足のショック症状が出るのが怖くて帝釈天だけ見て、一人で先に帰った。

Img_0301  プレドニンもそうだろうが、糖尿病の人のインシュリンなど、切れるとショック症状を起こすような薬を飲んでいる人は、生活が制限されて本当に大変だろうなと感じた一日だった。

 

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